昭和48年03月12日 朝の御理解



 御理解 第100節
 「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」

 人間である以上、こういうおかげの頂けれる事を、願いとしない者は一人もなかろうと思う。本当にいつも目出度目出度であり、それこそ若松が、段々葉を栄えてゆく、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と言う様に、繁昌の道を只開けてゆくという、それが本当であるとするなら、そうゆう道を、本当にお互いが体得させて頂きたいと、願わん者はなかろうと思う。
 けれども、それを信じないからおかげにならぬ、だから本当に私共がです、それこそ目出度い目出度い、と日々いうておれゝる程しのおかげ、又はいよいよ子孫繁昌家繁昌のおかげ、そういうおかげの頂けれる道を、金光大神は教えて下さっておるんだと、言う事を信じるところから、そんならどういう道を歩いたら、どういう道を教えて下さっておるかと言う事に精進させて頂く事になる。
 そこから、成程金光大神は 嘘をおっしゃらんという、体験が生れてくるのです。ですから、こゝのところを信じなければ駄目、本当にそれを信じさせてもろうて、いよいよ家繁昌、子孫繁昌の道を 私共は歩かにゃいけん。昨日は若い先生方の、信心研修会がこゝで持たれました。学院長先生の御講話を、私も一緒に頂かせて頂きました。金光大神覚の中から、お話を下さったんですけれども、本当にお話を頂けば頂く程です、教祖金光大神という方の、いよいよその偉大さにですね。
 もう本当に恐れ入ってしまう、私はこゝ四、五日、金光大神の偉大さと言う事をもう、口を開けば言っておる訳ですけれども、もう本当に恐れ入って了うです。もう本当に素晴らしい教祖様、いわゆる金光様の信心頂いてよかった、という思いが愈強うなってくるです。例えて申しますと、お芝居を見ましても、映画を見ましても、主役というのが要ります、まあ脇役、端役に至る迄が、結局それは主役を引き立たせる事の為に、脇役もあれば、端役も有る訳です。
 私は教祖金光大神様を、人間がいよいよ繁昌してゆく、幸せになってゆく、本当の意味においての、幸福になっていく為の、世界中のいうならば、主役におなりにならなければならない、私共はそういう教祖様を、頂いておると言う事です。してみると、例えばお釈迦さまでもキリスト様でも、その教祖の神様の、脇役をおつとめになる事になる訳です、それはあらゆる宗教が、脇役、端役とゆう事になるでしょう。
 いわゆる世界の金光大神、地球上に住む人間の全てがです、金光大神の教えを頂き、金光大神を主役に頂ける、世界のいわゆる金光大神、と言う事にならせて頂けれる、私共はそういう一つの責任が有るようです。もう教祖様のどの一言どの一言の御教を頂いてもです、その深さ広さに驚いてしまうです、もう本当にお釈迦様も説き得ておられなかった事、キリスト様もここは知っておられなかっただろうと言う様なです、もう本当にぎりぎり決着、人間の真実幸せになってゆく道をです、教祖様は教えておって下さる。
 いわゆる金光大神が教えて下さる、子孫繁昌、家繁昌の道というのは、人類幸福の為の道というのは、そういう道なんです。それは私共は他の宗教の事は分かりません、分かりませんけれども、例えば昨日の朝の御理解から頂きましてもです、神と仲善うする信心ぞと仰る、神を恐れるようにしてはならん、神に出来るだけ近づく、しかもその仲良うする信心ぞと仰る。
 私はこの事を昨日は頂いて、あらためて昨日のところに気付かせて頂いたんですけれども、もういよいよ、教祖様の仰っておられる事の素晴らしい事に、恐れ入ってしまいます。お釈迦さまの道でも、キリスト様の道でも、お詫びによって神様と交流するという道が無いのです、お詫びをされて、おかげを頂くという道が無いのです、それを昨日は、教祖様のあの、のどけの事から聞いて頂いた訳ですが、人間としては尽くすことはやった、やるだけのことはやったそれでも。
 又いわばひょうび金神のたたりと言う様なお知らせを受けられて、この家の主人に限ってはそう言う事は無いと、こう古川八百蔵さんがおっしゃっておられます。けれどもそれを聞かれた教祖様が御神前に、ハイハイをしながら出られてから心の中に念じられたこと「只今氏子の申しました事をとお詫びを申しておられます。もう天地の親神様と言う方はもう許したやりたい、詫びればゆるしたやりたいのがという一念なのです、詫びれば赦してやりたいのが親心。
 これは私共人間親子の場合だってそうでしょう。詫びれば許してやりたい親心と、お詫びが一つになっておかげの頂ける道なのです。これは、ですからお礼と言う事でもそうです、願いと言う事でもそうです。ですから願いによって神様と交流する、お礼によって神様と交流する。問題は助からなければいけない。昨日学院長先生のお話の中に、先日から学院生の試験があったその時に、その問題の答にです、御理解に「信心なければ世界は闇なり」というところが有りましょうが。
 ところがその一学院生が出しておる解答がです、「信心が有るから世界が闇なり」というた。 私は、それを聞かせて頂いてから、ドキッとする程素晴らしいと思いました。先日読ませて頂いた本に、京都の比叡山ですか、あちらで沢山なそれこそ名僧知識とゆう方も、沢山輩出された、沢山なお坊さん達が修行した、その模様を色々書いたものですけれど、例えば女犯の罪を犯したからね、その責苦に耐えられず、自分の良心の呵責に耐えられずに、自殺をしたという人が、幾人も有ったと言う事。
 何の為にね、天地の親神様がひっ込んだのと、出たのと作っておられるか、と言う事から考えてみてもです、先日から、ある女子青年の方が、こゝでお願いをさせて頂いた、もうそれこそ、煩悩が湧いてくる、もう雲のように湧いてくる、それを又、お夢の中でゝも頂いた、もう沢山な犬が、自分の周囲をとりまいておるという、昔は犬は煩悩と言われていて。それを例えば罪悪視しとるです。
 キリスト教でも、仏教でもそれは説いておる事は素晴らしいのです、けれどもそんなら教祖の神様の御教を段々、そんなら百年が千年、千年が二千年とゆう風に、この教祖の御教の教典というだけでも、説き明かしていったらそれこそ、お釈迦様が説き得られなかった様な所迄、段々微に入り細にわたって説き得られるのが、教典だと思います。例えば私が二十数年間、この教典だけを説いてきた、それだけでも大した事です。
 その高松さんとゆう人でしたけれどもね、私がこゝでお取り次頂いたのは、そしたらね、こういう御理解でしたよ、情欲が湧いてくる性欲が湧く、旺盛で自分でも困る「決して困る事じゃない、生きておるしるしだから、お礼を申し上げる事ぞ」と頂いた。教祖様の御教はね、例えば熱があっても、腹が痛かってもです、本当に生きておるしるしだと、私共頂いてきました。
 成程生きておるしるし、生きておるからこそ、痛いもある痒いもある、けれどもです、そうゆう例えば、そんならそれが、食物に例えるならば大酒大食はいけません、それが只一つの道に従ってです、それが行われると言う事は、もうお礼こそ 申し上げねばならんのだけれども、それが罪の意識なんかを与える宗教であったら、成程その学院生が答案用紙に書いたとゆう、信心が有るから、世の中がまっ暗うなるんだと、
 そうゆう信心を頂いておる為に、そんなら自殺をすると言った様なね、その比叡山の坊さん達の話なんですけれども。あれは飲んではならん、これは食べてはならんと これだけでもね、教祖は素晴らしいでしょうが、例えば食物訓だけでも、命の為に与えて下さったんだもの、素晴らしい普遍性に富んだ御教ばかりです。先日から、統一教の若い先生方が、何辺か見えられまして、熱心にその統一教の教えの素晴らしさを説いてかえられ、こんな分厚い本を、読んどいてくれというて、置いてゆかれました。
 何辺目かに見えられた時、お話の中で私が、こう言う事を尋ねさせて頂いたんですが、「あゝた方は熱心にこうして参られますが、その布教の費用は、本部から手当てか何か頂かれるのですか」「いゝえ そげな事じゃありません」といわれる。そして「私共はね、廃品回収をやります、それから花を売ります」といわれる。私はそれを聞いてから申しました、もう教祖様の信心の素晴らしいという、私が一つの例をいうなら、例えば全国津々浦々に、金光教の教会があります。
 けれどもどの教会でも、花を売りに行って道を開いたとか、言う事もボロ買いをして教会を開いたという教会は一軒もありませんと、それこそ此方の道は傘一本で開ける道ですから、いうならそんなに資本をかけなくても、花を売りに歩かなくてもボロ買いをして歩かなくてもです、開かれる道なんですよ、これはもう日本中のいたる所にある教会の、一軒一軒でもです、それは大きい所もあれば小さい所もありますけれども、それはそれなり、たけだけしそうにです、矢張り人が助かり道が開けておるんですよ。
 丁度私が四時半下る時でしたから、今日はひとつあゝた方の話をゆっくり聞かせて頂こうというて、私が下る姿勢をとりましたけれども、その三人の先生方が、もうそれこそ、コソコソと帰ってしまわれました。同時にこのあゝた方の一冊の本の、あゝた方が人間の難儀の元というのがね、乱淫にあると書いてある、もうそればっかりで一冊の本がしまえとる、男女の性の問題です、それが難儀の元だと、それをキリストも説き得なかったとゆ言う事を、その朝鮮人の教主という人はですそこを説き明かされた。
 そして、こうゆう一つの学問にしておられる、だからこれを読みさえすれば分かると、こういう、それは色々難儀の元はありましょうけれど、例えばそれは私が申しました、玉ねぎの根に、根が沢山有る、だから玉ねぎというものを難儀とするなら、その難儀の元というのは、その性の事だけではありませんよと、ある宗教では、先祖様が助かってござらんから、難儀するのですよという所もある。
 又は宗教ではなくても、あなたの人相が悪いから、又は姓名が悪いから、あんたの判相が悪いから難儀が続くんだと、というてそれを一つの学問にまでなる位に説明をしておる、だから人間の難儀の元というのは、私もあろうと思うて、いわゆる沢山有るかもしれんてところがです、どういう例えばそんなら難儀があっても、金光大神の道はね、いうなら和賀心だけで助かる道なんです、それも和賀心になってしまわなければ、ではなくて、和賀心を目指すと言う事になったら。
 もう例えば難儀の元というのは、それは太陽の前の星屑のように、消えて無くなるですよと、私は説明しました。ですからこれはひとつ、あゝた方の話も聞きたい、けれども私の話を、もちっと時間をかけてから、聞いて下さいませんかというて、話した事です。それを、あらゆる宗教は、様々な所に難儀の元を、根拠を置いてそれを学問的に、説明をしておる訳ですけれども、確かにそれは、どういう難儀があってもです、皆さんがおかげを受けておられる通りなんだ。
 本当に和賀心にならせて頂くその、勉強ですいうなら、和賀心学を身につけていく事だけでです、あらゆる難儀から解脱出来るのが、金光様の御信心、そういう道なんです金光大神の道は。そこでそういう例えばおかげを頂いてです、私共がね、そういうおかげを頂いて、一つ見本を示さなければいけない。まず私が私の家庭が、そして私の周囲の方達が、教祖が説かれる、いうならばその和賀心と言う事が、このように素晴らしくおかげの頂けれる道であると言う事をです。
 私共が体験してそれを人に伝えてゆかなければならない。成程教祖金光大神が、お芝居でいうならば主役を、つとめなければならない訳が分かるでしょう、皆さん。仏教を信心した為に、自殺せんならん、キリスト教の信心すりゃ男女の関係すらも、それこそ戦々兢々の思いでせんならん、こげな馬鹿な話があるもんですか、それこそね御の字をつけて 頂かしてもらう御性欲であり、生きておるしるしとしてヾす。
 本当にお礼を申し上げてこそ、出来れる事を、本当に自分の心一つで罪にもなれば、幸せにもなれる、教祖はそこんところも説いておられます。浸す事もあれば、払う事もある、自分の心一つなのだ、それをです、払う事の出来れる道を、教祖は教えられたんです。だから食べ物でも、お魚を食べてもよかりゃ、牛肉を食べても良いと、命の為に頂けと、命を害する為に食べたらいけないぞ、と教えておられる。
 お酒もえゝ、お神酒の間は有難い、御神酒の間は有難いけれども、お酒になると乱れてくる、だから私共は、御神酒として頂けれるところ迄、頂くと言う事が本当だ、お酒飲むと粋狂が出る、これはいけません。そういう道をです、噛んでふくめるように、例えば仏教では、五戒とか十戒とかゆう、とても人間では出来そうもないような、厳しい事を教祖は仰られた、例えば御神誡なんかです、私共がそれを本気で行じようという気になったら、誰でも行じられる事を、容易う教えておられる。
 成程お釈迦さまでもキリスト様でも、教祖の神様の脇役を、おつとめにならなければならない時代が、必ず来ると私は思うです。それは千年先か、万年先か分からないけれども、そうゆう意味で教祖様の偉大さを、私は最近しみじみ感ずるです。ところがこゝに一つね、云うなら難問題がある。皆さん御承知でしょうか、菊の一種にね都わすれ という菊があります、紫の濃いとてもいゝ花です。
 先日聞かせて頂いたんですけれどもね、これはもう手入れをしてもしても段々根が無くなってくるそうです、そして、しまいには無くなるそうです、ですからこれは、よつぽど専門的にその仕立て方とゆうか、育て方をね、致しませんと、それはもうしかともなか花やらはもう、バラまいとったっちゃ生えるでしょうが、もうひっこいでもひっこいでも生えるでしょうが、つまらんはなは、それこそ夏の畑のかぼちゃのように、広がっていく宗教もありますけれども、そうじゃないです、金光様の御信心は。
 御理解抄の中にも、黒住さんがあゝしてどんどん広がっていくが此方の道は、千年も万年もして、広がっていく道なのだと、教祖は仰っておられる。ですからこゝに、私共金光様の御信心させて頂く者が、分からせて頂かねばならない事は、その都わすれの菊の花にも似たようなものなんです、ですからこれをね、育てると言う事にです、これを残してゆくとゆう事にです、本気に私共が考えなければ、段々細うなっていくです、どんなに素晴らしかっても。
 そこのところを私共はです、いわゆる親の代よりも子供の代、子供の代よりも孫の代に繁昌してゆく道をです、教祖は教えておられるのですから、それを私共が信じて疑わず、金光様の信心すりゃ本なこて、子孫繁昌、家繁昌になるじゃろうか、あそこも信心しござったばってん、もう絶えらっしゃったと言う事実もある訳です、だから金光様の信心しよればというだけじゃいけんのです。
 本気で教祖生神金光大神の、教えられた事を、本気で信じてですそんなら 例えばこの御理解百節でもです、本なこつじゃろうかというのじゃなくて、それを信じて行じさせて頂いたら、かくおかげを受けたという、おかげを皆さんが、頂いて下さらなければならない、なるほど教祖様は、ひと言でも嘘はおっしゃっていないという事実を、私共が確認しなければならない。
 教祖様のお言葉、御教をです、その例えば深さというか、広さというか、それこそどうゆう偉大な宗教家も、説き得ていなかったところをです、しかも簡単明僚に、説き明かしておって下さると言う事、それだけでも、成程教祖金光大神が偉大なお方であった、そうゆう偉大なお方を、私共はこゝに頂いておる、と言う事をまず、お礼を申し上げなければならん、そして私共も、教祖金光大神が教えて下さるおかげの道というか、最近こゝでいわれるところの、五つの願いと言う事がです。
 もういよいよもって、願わなければおられなくなってくるです。二十数年間本当に和賀心を目指しさえすれば、おかげは願わんでもよかばい、頼まんでもよかばい、もう頼む事はもう、親先生に任しときなさい、あんた達は和賀心になる事だけでいゝ、それでおかげを頂くとゆうのが、昨年辺り迄の合楽の信心であった。それがあの昨年の記念祭を境に、これはおかしいぞと気が付いてきた。
 まるきりこれは居候のような、それこそ願う事は、居候三杯目にはソッと出し、と言った様な、私共は信心であった事に気付かせて頂いて、もうそれこそ正々堂々と、気兼ね遠慮が有る訳がない、親だもの、子だもの、そして願って願って、願いぬかせて頂いて、おかげを頂きたい。その最も願わなければならない事がです、体の丈夫を願えと仰るから、愈もう、体の丈夫を願わなければならない、もう繰り返し願わなければならん、御神前に拍手したが最後、もう必ず、この事だけは願わなければならん。
 次には、家庭に不和の無きが元と仰るですから、家庭円満のおかげを頂いて、家族が勢を揃えて信心してゆかなければです、そんなら金光様の信心させて頂いておっても、親父が信心するから子供がいわゆる信心ちゃまっ暗になると、言う様になるかもしれませんよ、だから家族が勢を揃えて、信心さしてもらう。次にはねいよいよ、今日の御理解じゃないですけれども、子孫繁盛家繁盛を本気で願わなければならない、しかももう繰り返し、もう神様はそげん、くぞらしかとはおっしゃらん。
 もう願えば願う程、神様は合点して下さる。次には真実の御用が出来ますように、真実の御用、それはお供えをしたり、御用をしたり、教会のいろんな事をする事も御用ですけれども、それよりも、もっともっと素晴らしい御用はです、私共が頂いておる、いわゆる天職なのです。仕事と言う事は、事に仕えるとある、その自分の頂いておる仕事に、仕えさせてもらう思いで、御用が出来るようにならなければ駄目です。
 これを私は真実の御用だと言っている、真実の御用が出来ますように、そしてこれは神様の願い、神願御成就に相成りますように、世界のすみずみに迄です、それこそ和賀心時代が創られ、広がっていく事を願わなければ、これが神様の一番の願いなのだ。人間いわゆる世界総氏子がです、助かってゆくと言う事、和賀心時代を創らなければならないとゆう訳が、そこにある訳です。
 そういう一つの運動員に、私共はならしてもらわにゃならん、為には私共がおかげを頂かねばならない、おかげの見本をひっさげてこの運動に参画せねばならない。神の願いが成就する、神の願いとは人間氏子が助かると言う事です、そういう例えば切なる迄の、悲しい迄の神の願い、というものが成就する事の為に、健康のおかげを頂かねばならんのであり、家庭円満のおかげも頂かねばならんのであり、商売であるなら商売大繁昌、いわゆる子孫繁昌家繁昌の、おかげを頂かなければその御用が出来ませんもの。
 その為に願うのです、しかも願うと言う事はです、その願うと言う事から神様と、いよいよ仲良うする信心が生れてくる、私共は二十数年いやそれでも、一つのこゝを分からせて頂く為ではあったけれども、只和賀心になれば、信心が分かりさえすれば、おかげ頂くと云うて、願わなかったけれどもそうじゃない、願って願って願いぬかなければならん、それが神の願いなのだ。 愈五つの願いが、今日の御理解頂いておりますと、本当に切実に、願わなければならん事が分かります。
 教祖金光大神は、家繁昌、子孫繁昌の道を教えて下さる、その道を私共が、行じさせてもろうて、いわゆる神様の理想境とでも申しますか、又は私共の願いである、いわゆる神の願いと、私共の願いという、そこに一つの一致点が出来る、そういうおかげを受ける時教祖金光大神が喜んで下さる、いわゆる神も喜び金光大神も喜び、氏子もの喜びと言う事になるのです。そういうおかげを頂く為に、いよいよ本気で、力を頂かしてもらわなければならんと思うのです。
   どうぞ。